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自ら自己を高めよ

世界的に読まれているヨガの経典

「バガヴァッドギーター」の6章(5貢)に

 

「自ら自己を高めるべきである

自己を沈めてはならぬ。

 

実に自己こそ自己の友である。

自己こそ自己の敵である。

 

自ら自己を克服した人にとって、

自己は自己の友である。

 

しかし自己を制していない人にとって、

自己はまさに敵のように敵対する」

 

という言葉があります。

 

自ら自己を高めるべき、ということをお話しするときに、いつも思い出すのがインドのプリーという街であるお祭りのことです。

 

プリーでは、年に一度「ラタヤットラ」というお祭りが開かれます。

 

ヒンドゥー4大聖地でインド各地から巡礼者がやってくるジャガンナート寺院の前の大通りでは「ラタヤットラ」の前に腰巻をした男性陣が、お祭りのための大きな山車を何日もかけて作ります。

びっくりするほど大きなお神輿です。

大通りいっぱいに広がるような!!

 

ラタヤットラとは、ジャガンナート寺院に祭られている神様をのせた豪華な装飾の巨大な山車(ラト)が、グンディチャー寺院までの2.7キロメートルを練り歩くお祭りで、クリシュナ(ジャガンナートと同一視されている)の故郷帰還を記念するお祭りといわれています。

 

神聖な行列を見ると幸福になると信じられていて、毎年100万人近くの人が街に溢れ、大変な騒ぎになります。

熱狂的神様ファンや、ドラッグでハイになっているインド人の群れ……。

ということはおいておいて……。

 

このお祭りは、お寺にいる神様が、「山車(だし)」や「神輿」といったからだに乗って、

この世にやって来て、いろいろ体験して、またお寺に戻ることを象徴しています。

お祭りには、魂が肉体をもってこの世に生まれ、この世界をめぐって様々な体験をして、あの世に戻るというエピソードが含まれています。

 

ヨガでは魂を「アートマン」といいます。

そしてアートマンとは、自分自身の本質で神につながる存在であると説いています。

プリーのお祭りは実は京都の祇園のお祭りの元になったそうです。

 

神社ではお神輿を担ぎますが、人間はみんな生まれたときは、お祭りと同じように神様を背負ってこの世に生まれてきていると考えられます。

 

ヨガはお神輿の担ぎ手である「私」が、神様を背負っていると気づくことを目的としています。

人生が「お祭り」と同じことだと考えると、、、この世で生きることは神の「遊び」です。

サンスクリット語では「リラ」といいます。


私たちは内側に神様を持っているのにもかかわらず、大切で価値あるものが、外側にあると考えてしまい、毎日の行為を「遊び(リラ)」とは考えず、いつも行為をして「何か」を得ようとしてしまいます。

自分の内側にあるものに目を向けず、外側から何かを得ようとする行為では、担ぎ手(自分)と担がれる存在(魂=神)が別々になってしまい、満たされることがありません。

 

ヨガでは、すべての行為を行為の結果に執着せず、純粋に「遊び」として考えることによって、自分の本質は「アートマン」と気づくことができると言われています。

 

これはほかのだれかに代わってもらうことはできません。


私たちは、自分で幸せになるための行動を起こす必要があります。

自分の内側に気づくためには、自分が実際に行動を起こし、体験していくことが必要になります。


執着をしないで行動する。

今、自分の目の前にあることに丁寧に取り組んでいくことが、実は内側の存在につながるために必要だということです。

行動を通して、私たちは自分がどんな人間かに気づき、魂に近づいていく。

 

執着しない行動、ということを自分に当てはめて考えると、私にとってはボランティア活動がそうでした。

実は、ボランティア経験がいろいろあるのですが、そのうちのひとつのお話をさせてください。

 

もう、10年も前のこと!!ものすごく最近のように思い出せるから不思議です。

 

カンボジアで1か月学校建設のボランティアに携わっていたことがあります。

 

なぜ、そこに行きついたか、というと、単純に魅力的な友人が学校建設に誘ってくれたからでした。

 

人との出会いというのは、奇跡的な偶然で、70億人を超えようとしている中から、選ばれた人が自分の前に現れる、、、。

 

そういう人のお願い事を、自分に余裕があるときには、受け入れようと思っています。

けれども、思い切りよく飛び込んだ割に、カンボジアの学校建設で、私は最初、自分の立ち位置がわかりませんでした。

大工さんは雇われているし、専門家でもない私のすることは、ただ周りの作業を言われたままに手伝うだけ。

本当に役に立っているのかもわからない状態。

ここにいる意味があるのかなぁ、来た意味あるのかなぁと不安になることさえありました。

 

なにしろ、当時、私はわざわざ韓国ウォンで購入した、しかも何日もかけて綿密に計画を立てて計画した航路の世界一周航空券を捨ててカンボジアに来ていたので、後悔することも多々ありました。

 

でも、一生懸命に動いていると、だんだんとそういうことが気にならなくなりました。

そうすると、不思議と周りのことも見えてくる。

経済的な落差のあるカンボジアですが、カンボジア人が当時の私には幸せに見えました。

 

いろんなものがないから、いろんなものを貸し借りすることが当たり前で、多くの人が気持ちよく自分のものを差し出し、感謝の言葉があふれていました。

ないからこそ支え合える、そういう豊かさがあるんだということに気づきました。

子どもたちも親の仕事をよく手伝い、村の人はみんなで子どもを見守り、助け合いが当たり前の雰囲気で、疎外感がないのです。

 

外から判断すれば、私はここに多分、与えに来た、と思います。

でも終わるころには、目いっぱい与えられていました。

行動することそのものが喜びだと気がついたこともそのひとつです。

 

そして、村とお別れをするときにもう涙が止まらなくなってしまって、一生懸命に誰かのために働くことでしか、感動できないといういことにも気づきました。

 

学校が建つということになんの執着も何も持っていない私でしたが、行動することによって、自分の中に新しい気づきを持つことができました。

 

執着せずに行動することが自分の内側とつながる、まさに自分の味方は自分で、自分で行動するしかないのだと感じたできごとでした。